2011年5月18日水曜日

ヤクザに拉致されたり、政治家に恫喝されるのが編集者の仕事。『トラブルなう』

命をかけてまで仕事に殉ずる覚悟を持つ人は素晴らしいと思う。それこそが前のめりになって死ぬという事だからだ。

ページを開いたら非常におもしろく、一気呵成に読んでしまった。
なんだよ、世の中にはひどいやつがいるなー、とか思いながら梅こぶ茶なんか飲んでいた。
そして、気づいたのである。あれ、私って今すごく薄っぺらい人間になってない? 無根拠に物事を決めつけてない? この本に書かれていることをきちんと理解してないんじゃない? と。
というわけで二読目。油断も隙もあったもんじゃない。
久田将義『トラブルなう』の話である。

本書の著者である久田は、雑誌「実話ナックルズ」の編集長を長年にわたって務めた人物である(2001~2006年。版元であるミリオン出版を一旦退社し、その後は「選択」「週刊朝日」などの各誌に在籍していたが、2008年にミリオン出版に復帰。「実話ナックルズ」編集長を経て、現在は編集局次長)。裏社会ルポや芸能スクープなどを中心に据え、メジャー誌とは一線を画した誌面作りに徹した実話誌というジャンルがかつて市場に存在した。多くは雑誌文化の衰退のあおりを受けて消滅したのだが、その正統は「実話ナックルズ」に継承されている。
その編集姿勢からして、「実話ナックルズ」の歴史が悶着に彩られたものであろうことは想像にかたくない。で、本書『トラブルなう』だ。久田が自らの編集者生活を振り返り、いかに各方面でトラブルに巻き込まれてきたかを綴った回想記である。帯のコピーが凄い。
「編集者の仕事とはヤクザに脅されたり、拉致されたり、政治家に恫喝されたり、大企業かや芸能プロから訴えられる事である」
この文句を読んで畏敬の念を覚えない人間は、雑誌に限らず、もの作り全般に関わる資格がないと私は思う。

本書は、アウトロー編、政治家編、文化人・ライター編の三部で構成されている。最初のアウトロー編が、読者にとっては最も印象が強いはずだ。本職バリバリのヤクザから武闘派ギャングまで、よくここまで幅広く敵に回したものである。中にはヤクザのふりをする三流の悪党(こういうのをヤカラというそうだ)もいるが、多くは人を殺すことなど屁とも思わない物騒な人種なのだからたまらない。ちょっとこの恫喝を読んでほしい。久田が実際に電話で受けたものだそうだ。
「(前略)よし、今からワシが言うこと録音せいっ。これは恐喝や! それでそのテープ持って警察行け、いますぐ行けぇっ。それでワシをパクらせろ。恐喝で2、3年務めてくるわ。それで出てきたらお前を殺す! それでワシの男が立つんやっ。

な、頼む! 警察行って、お前を殺させてくれや。頼むわ!」
「な、頼む!」じゃねえ! こんな言葉を浴びせかけられて、正気を保てる一般人はいないだろう。
本書で久田は、自身をいたずらに美化することなく、あのときの対応はまずかった、蒼かった、と反省の弁を口にしている。その「反省点」と書かれた項目が随所に挿入されるのがおもしろく、自身がそういう事態に遭遇してしまったときの参考になる。いや、いちばん正しい対応は自分で何かしようとせずに警察に飛び込むことなのだが。

次の政治家編は、暴力ではなく権力で圧力をかけてこようとする者たちとの闘いについて記されている。
「そんないい加減な事書く奴は抹消するは抹消すると言ってるんだ」と脅迫をしてくる大物国会議員や、「編集長、うちの先生についてはわかってるよね。返答次第では逮捕拘束もありえますからね」と恫喝してくる議員の雇った弁護士など、国家権力を私物化したような酷い脅しの言葉を口にする者が続々と出てくる。いや、「ような」ではなくて本当に私物化してしまうこともあるのだろう。久田はこうした恫喝を受けると怯むよりも前に闘志が湧いてくる性分のようで、時には職を失うのもやむなしと腹を括って、相手と刺し違える決意を固めてしまうのである。そのへんの怒りがストレートに伝わってくるので、政治家編は読んでいて非常に熱い気持ちにさせられる。

第三の文化人・ライター編で久田が対峙するのは、アウトロー編や政治家編に出てきた敵ほどは危険ではない相手である。しかし、暴力や権力の代わりに公における発言力という武器がある。言論の場では、一つの発言が命取りになることだってあるのだ。そうした修羅場をかいくぐってきた相手であるだけに、やはり軽く見ることはできない。
実際、ここで久田が名前を挙げているのは、決して無名の書き手ではない。中森明夫、藤井良樹、本多勝一、宅八郎、勝谷誠彦と、錚々たる面々といってかまわないだろう。そうした人々と久田がぶつかった事件について、私の中にはおぼろげながら記憶があった。たとえば久田が『うわさの裏本』というムックの編集を手がけたときに起きたという、ライターズ・デンとの衝突事件(ライターズ・デンが何で、誰と誰が衝突したかは各自調査!)。『うわさの裏本』で問題になった記事も、一読者として目にしていたはずで、おぼろげに覚えていた。だが、その辺の事情に詳しくない世代の読者に目には、第三部の記述は曖昧なものとして映るはずであり、ちょっと不満がある。

アウトロー編や政治家編の「わかりやすさ」がないのだ。そこが本書の唯一の弱点である。
そして私は、この第三部ではっきりとした違和を自分の中に感じ取った。いや、久田の記述が間違っているとか、偏っているとか、そういうことではない。
本書の「論争に保険をかける有名ジャーナリスト」という章には、二人の高名なジャーナリストが揉めたときのことが書かれている。具体的な論点は書かれていないのだが、当事者のうち一方が、「論争の内容を他の媒体に書いた場合、一億円を払う事」という条件を出してきたため、論争自体が流れてしまったというのである。久田はこの章の結びで、「一時期ではあるが面白いと思ったし、一部では熱狂的なファンを作った人が言論の自由を脅かすような事を言うとは」と、その人物に対して批判的な意見を述べている。
そこを読んで私も、そうだその通りだ、○○○○情けないぞ、と共感したのだが、そう思った瞬間、自分の中に不安の感情がこみあげてくるのが判ったのである。

え、なんで私は同意しているわけ。
実際にその場にいたわけではない、まして論争の詳細さえ判っていないことについて、著者の尻馬に乗って相手を批判してもいいわけ?
だめじゃん。そんなの、文章を書いて生きている人間として失格じゃん。いや、別に物書きじゃなくても、それはダメだ!

事実の一面を切り取って読者に提示するという行為の難しさが、この『トラブルなう』という本には現れている。本書の第一部、第二部は、報道という行為に圧力をかけようとする対象との闘いを描いたものだった。それは「外敵」である。表現の自由を奪おうとする者と対峙するとき、表現者の中に矛盾は生じない。
しかし第三部で描かれているのは、文化人・ライターという同業者との戦いだ。いわば「内なる敵」である。それは自分の鏡像だとも言える。だからそうした相手との闘争は、実は闘争ですらないのだ。最終的な目的は、自身が拠って立つ位置の確からしさを、他者と、そして自分自身に対して証明することなのだから。闘争と言いながら、実は闘う相手との協働作業で自分を高めているといってもいい(だからこそ相手が「保険料として一億よこせ」などと言い出すと、憤慨したくなるわけだ。そういう意味では○○○○に久田が失望したと言う意味はよく判る)。
久田はこの問題には自覚的だ。第三部の冒頭に「言論の自由とは何を書いてもいい。ただし、何を書かれてもいい」ことであり、ただしいかなる場合でも「反論権」は保証されるべきだ、という趣旨が書かれていることからも、それは明らかである。

異なる意見・観点の持ち主同士が互いに相手を批判し合うことにより、中心にあるものの輪郭を明らかにしていく。そのために論争は行われるべきだと私も考える。
「実話ナックルズ」は、いわゆるイエロージャーナリズムの雑誌である。当然メディア・バイアスが記事の内容にはかかっている。久田はそのことを本書で一言も弁解していない。読者の中にはそこに疑問を感じる人も多いと思う。扇情的な報道に正義はあるのか、胸を張ってジャーナリストと言えるのかと、読者は言うだろう。
難しい問題だ。少なくとも今の私は、この問いに対して単純明快な回答を返せない。しかし本書の著者は、覚悟をはっきりと決めたようだ。勝手にその考えを代弁するなら、こういうことではないか。
「記事にバイアスはあり、そのことを否定するつもりはない(だから読者は、そのバイアスの存在を読み取らなければならない。私が自分に失望したのは、このバイアスに無意識のうちに従ってしまっていたからだ)」
「雑誌の姿勢が正義だとは思っていないが、「実話ナックルズ」のような雑誌を出す事を妨げようとする者に対し、毅然とした態度をとることは正義だと思っている」

喧嘩の本を読んで、こんなことを考えた。無用の裏読みだったとしたら、著者にはお詫びを申し上げたい。『トラブルなう』、明るく激しく楽しい読み物である。巻末には「噂の真相」岡留安則元編集長との対談も収録されている。お薦めします。